画家の一家に生まれ、厳格な絵画教育を受けました。その間、古典作品さらにアメリカ色彩絵画の模写をしました。 この非常に古典的な教育により重要な基礎テクニックを身につけ、芸術にあふれた家庭の雰囲気の中から豊富な絵画知識を形成しました。

高等教育の期間中は、自己を絵画作品に表現することに費やしました。

1996年から私の絵画への探求は「抽象」という独特の方針に向かいます。

好奇心旺盛、独立意欲にあふれ、美術史に熱中した私は、まず最初にあらゆる芸術的気流が自由の獲得へと向かうこの熱気を理解しようとしました。

今となっては必要不可欠なものであったことが理解できますが、模写による技術の習得は大変窮屈な拘束でした。創造性を抑えつけ、欲求不満を増加させる過程でした。

しかしこの修行と理解の時期は、私の画家としての成長に避けては通れないものでした。絵画とは私にとって個人的な、人生の、進化する、卓越した前進であり、疑惑、恐怖、いらだち、喜び、実現、決意の時にともに歩むものです。

私の創造性はまず最初に色彩で表現されました。かなり満足のいく魅力的な結果となりましたが、私はもっと他のものを探しました。ロンドンのテートギャラリーでターナーが最後に描いた三枚の作品に出会い、二年間、彼の色彩を学びました。

それらの絵は抽象的で、抽象絵画の幕開けともいえるものです。

この絵画は愛好家たちにとって魅力的なものでもありました。しかし何か説明しがたい次元で足りないものがあったのです。そこで私は抽象画についてのより深い探求に乗り出しました。

長い間、私はこの方向で制作を試みましたが、満足な結果は出ませんでした。ものの意味、絵画の価値、あらゆるものが私から逃れていったのです。征服しなければならない空っぽの空間はかなり広く、私のアプローチの根底にある善を失い、私は完全に落胆しました。長年私のアトリエに飾られていたものの、その意味を理解せずにいた、母から伝え聞いた祖父の言葉があります。

「行動の結果へ執着することをやめれば、熟練への道を容易にする」

絶対に《良い》芸術家になりたいというこの考えを捨てることができたとき

、私は自分が自分であるところのものになるのだと気付いたのです。実際のところ、こうしたすべてのことは、既成の知識を解体し、自我を飼いならすための長い仕事だったのです。

自分の絵画の本当の意味を見つけるためには、自分自身のすべてを一度失ってみる必要があったのです。

文学と科学(社会学、民俗学、哲学、精神分析学、量子物理学、化学)は、絵画制作における私個人の可能性を養うことにしかなりませんでした。

シュレーディンガーの猫の個人的体験:

この物理学者は、私にとって近寄りがたかった量子物理学の考察のある手がかりを提示しました。彼は完全な密封容器の中に入っている猫を想定しまいた。その猫はひとつのボタンを持っており、もし猫がこのボタンを押せばガスが放出され、猫は死んでしまう。シュレーディンガーの結論としては「猫が死んでいるか生きているか眼で確認しない限り、猫は二つの次元において死んでいるし生きている。」

私は自問しました、私の異なる次元とはなんだろう?

そして私は、精神分析学のおかげで、感情は我々の人格の最重要な次元であるということを悟りました。つまり異なる次元が存在したのです。

我々の身体は一つの次元であり、我々の知性は第三の次元である。

抽象の意味に触れるために、禅の思想を理解する必要がありました。アーチェリーの技術は決定的です。矢は軌道に従い、的の心配をすべきではありません(行動の結果へ執着することをやめる)。的は軌道上の一つのステップでしかないのです。

矢は自由である。

精神は平穏である。

社会科学では、領土、覇権、権力、狩りといった権力闘争の枠組みを示しました。私の人間の条件の三つの次元では、対立は自身の感情と知性との間に起こります。感情と身体の間、身体と知性の間私の知性は私の感情と身体について推論します。私の感情は私の身体を満たし、知性を否定します。私の身体は幅を利かそうとします。

本能、無意識、感情的な憎悪、三つの氷山の隠された異なる面が現れます。知性-身体-感情の三つの次元に結びつきが生まれ、それらの隠れた側面が別のレベルのコミュニケーションを提供するのです。感情と身体との結合(精神病理学)、知性と身体との結合(欲求不満)、知性と感情との結合(物理的病理学、身体化)。

これらすべての結合は、闘争という枠組みのなかで第三次元にプレッシャーをかけます。

そこで私は自問しました。どの次元が支配的でありうるのか、またあるべきなのか。何が平和をもたらすことができるのか。しかしこの三つの次元はいかなる場合においても、支配的立場はふさわしくないのです。知性には想像力、幻覚、不条理、魔術的思考などと同様に著しい限界があります。情動は激化するとひどい苦しみを引き起こすことがあります。身体は確実なものではなく、衰え、壊れ、疲労するものです。

それでは私の中でバランスを保つために、他にどんなものがあるでしょうか?

もし私が身体でも知性でも感情でもないとしたら、では私の本性とは何なのか?

もし私が身体を使って描かなければ(リズムも動きもなく)、もし私が感情を使って描かなければ(私は何も感じない、感情で表現しようとも、誰かにそれを感じさせようともしない)、もし私が知性を使って描かなければ(知識によって作り上げることなく、技術的意図を持った構成、形、バランス、芸術的規則などを使わずに)。

しかしながら私は描く!

描くってなんだ?

私は自由だ。

私の知的精神は理解しようと躍起になるが、無力さの前にあきらめてしまいます

私の第四次元それは「精神性」だ。

シュウォラー・ド・リュビックは言った。「道具はそれが働きたいものの本質であるべきである。」

この精神を十分に生かし受容するためには、その輪郭を尊重し、つかみ、感じなければなりませんでした。それは私の本質の奥深くにあり、私の絵画全体に広がっているものです。それは自らの力で鋭敏に輝いていて、私はこの精神的次元とキャンバスとを結ぶ絆なのです。

私は現在40歳で、自分の作品から最大の喜びを得ています。私のアプローチは達せられ、私は自分の声を見つけました。私は一般の鑑賞者と愛好家のそばでその声を体験したのです。私の絵画は驚きを与え、分裂させ、憤慨させ、魅了し、熱狂させる。強迫的で催眠的な効果を与えます。

絵画は観察者たちの最も秘密とする部分に共鳴します。

その何人かは、彼らの知性にしがみつこうとします。そして論理的で合理的な理解を求めて言葉で概念を覆そうとしますが、突然彼らから逃げ出してしまうのです。

そして彼らが再度知的次元を放棄したとき、感覚と作品の本質は必然的に彼らに語りかけてくるのです。

自由の探求を目指したすべての運動の後に続いて、私の絵画は美術史に刻まれました。

抽象化とは、最大の自由に価値を与える絵画的「テクニック」のように私には思えました。この最も純粋な抽象化の探求、すなわち考えられうる、知的に理解しうるものを超えて、精神を呼び覚ます作品を捜し求めるのです。

それは時間を超越したものです。

図形、線、幾何学、構成、具象、概念を超えて、抽象は絵画と結びついています。この自由、つまり精神性の最重要なものは、我々自身の別の次元へ開かれた扉であり、各人の世界に居場所を見つけるのです。

カラリストから抽象画へと方向を変え、私は能力を発揮しました。

私は自由を、生命の力を感じます。

それは自由の格別な喜びでした。私は抽象を目指している知性の次元を乗り越え、完全に抽象的な精神の次元に到達したのです。

私の絵画は、最も手に負えない観察者すら魅了し、夢中にさせます。なぜなら彼らはそこに自分の知性を超えた何かを認めるからです。さらに10分間彼らを観察していると面白いことが起こります。初めのうちは、彼らの精神はそこから離れようとするものとがぶつかり合いますが、やがて未知であると同時にたいへん馴染み深いこの世界へ完全に連れ去られてしまうのです

彼らの意に反して、何かが語りかけてくるのです。

私は知性を手放すことによって構築される抽象化の特性を愛しています。

ロスコの感情的な意味ではないけれど、私はもはや彼のアプローチを私が知覚したものを表現するための手段にはしていません。私にはとりわけロスコが画家と絵画との距離を取り去ったのだと思っています。彼は感情で描いているからです。

彼を行為に駆り立てるのが、彼の感情なのです。

私の特徴とは、精神性の特徴です。この我々の一側面については説明するのが困難ですが、次に示す人間の絶対的なものと同じく、我々自身の中に生きているのです:

身体、知性、感情、社会的規則

民俗学者は、いついかなる時代と社会においても絶対的なものを挙げることができました。

いかなる時も認められたもの、それは次に挙げる次元です:

身体的、知性的、感情的、社会的(時間の)、精神的

その次元には毎回異なった形式、色、証拠がありますが存在し続け、我々の単一性の内で我々一人ひとりに体現されているのです。

私の芸術的目的は、観察者の精神性に触れるということです。

私の思考プロセスは、すべての人に存在する神聖な次元を呼び起こすものです。すべての人は、 制度的にあるいはそれ以外に所属しているのです。

最初は観察者たちは盲目で、何も見えません。しかし私の作品と数分間触れ合うと彼らはまるで魔法にかかったようになってしまうのです。

Cyre de Toggenburg


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