世界の真ん中で仙人


一部の人たちは誤解して、私の作品には形式がないというでしょう。そしてそこに(それに)関しては、私はいっこうに気になりません。

私は形式においても内容においても暴力的な絵画は要りません。ショックを与えたり、挑発したり、影響が強かったり、支配したりするようなことも好みません。衝突したり、驚嘆や興奮を与えたり、粗暴さや侮辱することも嫌いです。またしかし単なる気晴らしというのからも離れています。いいえ、暴力や愚かさ、モードの対極を阻止します。

あらゆる矛盾と策略とトリック、そして政治-社会-倫理-経済-病理学の要求とあわせて、同時代についての証言は他の人に譲ります。現代社会の漂流や恐怖の姿を写真に収めたりはしません。

さらに私は、軽蔑したり「問題」にならないことを無効とみなす次のような類のヒステリックな会話が嫌いです。「もし問題について語らなければ、いったい何を語るというのか?」

軽率、幼稚、超俗、魔法のような素晴らしい世界、こうしたレッテルやあらゆる行動や思考は、無邪気な愚直さの刻印を押されるでしょうし、私にはふさわしくありません。

現代人は暴力を好みます。そして絶えず災難の広がりを求められています。不条理な超越的要求は人類の悲劇的な状況に呪われた人物たちを登場させます。災害を糧にし、名付けようのない惨禍があふれ、さらに大きな災害を求めるほどに中毒的なのです。

したがって我々の人生は、座る時間や一瞬の考える時間を忘れさせるという点において、保全、防衛、保護、安全の行為の不変のペースに巻き込まれているのでしょう。我々にはもしかすると、自分自身として存在し共生するための別の方法を描き出す能力が備わっているのかも知れません。

光で照らす責任は誰しもが持っています。焦点を合わせた対象はすぐさまモデルとして捉えられます。

芸術はつねに社会の変化の先駆者であり、我々の人間性の恐ろしい短所と倒錯しか見ていません。我々の可能性の大きさを減じさせる見方のように思えます。それでは人間、そしてその人間性の構築のモデルとしてどのような提案がされているのでしょう?

芸術は我々人間の本性と人間社会を昇華するために与えられたものです。教育の場で平等の立場を芸術に(我々の人間性に)認めることは、我々には容易なことです。しかしながら、文化は道徳と倫理とに保証されており、なによりもまず教育のバランスを保つべきであることを人は忘れてしまいがちです。

私に関して言えば、もっと違うアプローチ、柔らかく甘美で官能的な方法を好みます。私は調和が大好きです。色、音、光、思考、流れ、マナー、感情、リズムと行動の調和。私は教育で測定される卓越したものを探しています。ここで語っているのは学校や家庭教育のことではなく、自分自身とそれを取り巻く環境のために捜し求める教育のことです。

私は代表となった権力、制度化された権力が忠実かつ公正で正義にかなったものであるとは想像できません。自分の世界で恐れているものに調和しつつ、誰もがこの権力を行使することができます。以上が、卓越性は自分自身にのみ向けることができると確信している理由です。その上でようやく周囲を光で照らすことができるのではないでしょうか。卓越性とは自己と調和していると感じること。卓越したものは妥協を許さず、我々には交渉する余地はありません。これは方向、道程、進化であり、本質的かつ根本的な革命です。

私の絵画は卓越性に開かれた時空の入り口です。その卓越性は我々の感情的で精神的な人間性の窓、扉、天井、鏡であろうとしています。それは矛盾したイデオロギー、(社会の理不尽な命令)に対峙するものであり、私があなたに提示する道筋は、「自分自身である」そして「他の人と一緒にいる」ことを提供する沈黙の空間です。

画像と言葉がに帰属します Cyre de Toggenburg